Dein(D-in-G)さんの小説

【KNML限定長編:思い出のパレット】新型悪性腫瘍・Marxert


「これが、彼女のカルテです」
まるで要塞の会議室のような、冷たい鋼鉄の壁が四方にはさまれる狭い空間。
目の前にたて掛けられている、巨大なホワイトボードを横目にして白衣を身に纏った医師達がコピーされたカルテを見つめている。
「……彼女は、倒れる数日前までは特に何不自由の無い生活を送っていたようです。 買い物や、独学での絵画修行……友人達と、その日も遊んでいたと」
「食生活に関しても、問題は?」
一人の看護婦が、神妙な面持ちで挙手で言葉を投げかける。 それに応える様に、一人の医師が静かに首を横に振って――言わずがな、その否定をはっきりとその口元から吐き出した。
「特に偏食なども無く、運動も友人とフットサルやバスケットをするぐらいはわきまえていたようです。 彼女の友人にも、その事については裏づけを取っていますし……本当にこの様な病気になるなんて、とても想像し難い事です」
「我々の想像なんて、あてにはならないですよ」
一人の、高齢の医者の言葉が彼らの耳に突き刺さるように飛び交ってくる。 彼らの視線が、その医者のもとに集った時――神妙に真っ白なひげを撫でながら、その医者は言葉を紡ぎだす。
「ヤブイ主任……」
「君も、分かっているだろう。 この病気は、食生活とか運動とかそのような物なんかで発症率の有無がとやかく言われる筋のものではないのだよ。
 いつやって来るか、誰にもとに降りかかってくるか――一切合切“分からない”。
 それなので、先代の有志達はこの病気にまるでとってつけたかのような名前を付けたのだよ……。

 昔の外国語の意味で“絶望”……その毒牙に蝕まれたが最後、我々に残された手立ては数知れぬ。
 かつての星の勇者のような、伝説的な希望を託すしかない――そんな馬鹿げた理屈で付けられた病名――

 “Marxert(最期の瞬間)”……『マルクァート』だ」




 彼女にとって、梅雨空ほどこれほどまでに恨めしい物は一切無かった。
彼女と外界を唯一結ぶ、ガラスには外の景色を妨げるように激しい雨が打ちつける。 まるで投げつけるような、部屋の中に広がるその派手な音は頭の頂点まで被った布団も突き抜けて彼女の耳の奥まで突き抜ける。
苛立ちは――単に寝付ける事が出来ないだけではなかった。 いつも何かと気に喰わぬ事があれば真っ先に動き出してシェルターでも作ってやっていただろうか――。
それが、出来ない。 まるで血液が通るのを渋っているかのように、体中に満足に地が流れていないのが分かっていた。 そのお陰か、彼女の聞き手の右手はまるで氷のように冷たい時が多かった。
血液を通す為に、無理やり右手を垂らしたりと無垢なアイディアはこれまで幾度と無く考えては医師の目を盗んで実行を続けていた。 ベッドの壁の隙間から右手を突き出して、床に向かって提げる……これだけで、血が程よく流れるのではないかと考えても、ただ右手がこれほど以上に無い疲労感に襲われるだけだった。
医者からは単なる過労だとも言われてきていた。 “過労”だけで、全快になればそれはそれで“徒労”に過ぎぬのだが日々を過ごして行く中で、確実に彼女は自分の身体の内に広がる“違和感”を自分の物として――確かに掴んできていた。
一時間、一日――時間を刻むのが増えれば増えるほど、その違和感は“確信”に少しずつ歩みかけてきている。 そして、時より頭の中を過ぎるのだ……彼女の脳裏に浮かぶ、絶望的な“何か”を。
そう考えると、何かと不安が頭をそれ以上に包み込んでいった。 そんな中で、ひょっとすればひょっとして――彼女は“己が明日にでも逝ってしまうのではないか”と、思考を張り巡らして来るようになっていった。
遠からずとも、それは確実なものなのだろう。 このまま、何も無い病室で――窓際に、多少の演出で寂しくおかれているだけの名も知れぬ“花”にだけ見届けられてこの世を去るなんて――そう考えるだけで、彼女の背筋は凍りつくような感覚が襲ってくる。



“恐い”。 それだけが、答えだった。
名前も何も知らぬ病原菌に、自分の命を蝕まれ掻き消されていく恐怖。 その過程の中で、少しずつそれを取って見せ付けるかのようにやって来るであろう“症状”――。
明日すぐにでも、身体が動かなくなるといった確信も無い。 すぐにでも、目の前が真っ暗になるといったビジョンも無い。 ただ、確かにそれは可能性としては有り得るのだ――百でもないが、ゼロでもない。

そして……喉を潤すために、近くの自販機まで来た時に耳にしたあの言葉――
“Marxert”……『マルクァート』。 言葉の意味は、彼女にもはっきりと理解が可能だった。



「マルクァートって、確か“最期の瞬間”って意味だったんですよね……」
真っ白な病室の中で、看護婦を引き止めるかのようにその言葉が紡がれた。 その言葉に、言葉を忘れるかのように呆然と口を開きながら……自分自身の余命を知っていた以上に、看護婦も彼女がその病状の意味までも学習していたことに驚嘆していた。
顔色どころか、表情から何一つ変える気配も無く……アドレーヌは道具入れから絵の具チューブを取り出した。 慣れた手つきで、指で蓋を固定すると親指の力だけでそれを回し始め――蓋はあっさりと取り外され、彼女は搾り出すように力を込めてパレットに取り出した。 勢いよく、絞られた真っ黒な絵の具を――水に溶かした筆でまんべんなくかき混ぜると、生地のように薄くのばしてパレットに中ほどの大きさの真っ黒い楕円を作り出す。
「最期の瞬間か……昔の人って、凄く小洒落た名前を付けるのが好きなんですね」
看護婦の言葉が入る隙間も無いぐらいに――部屋の会話の大半がアドレーヌの言葉に支配されている。 筆は既に不要なのか、画材道具にしまいこむと先程作った真っ黒な楕円に覗き込むように彼女は黙したまま……見下ろしている
「……数ヶ月、そう言ったけれど?」
初めて看護婦の口が、彼女の達者な言葉のあとに開かれる。 まるで濁したかのような笑顔を浮かべながら、先程の黒のチューブを綺麗にしまうと、手探りでまた何か、別の色の絵の具を探しこむ。
「看護婦さん、私の質問に――答えてくれませんか?」
絵の具を取り出しては、顔付近まで引き寄せて――それを繰り返しながらすぐ横にいる看護婦に彼女は問いかける。
それに、「何を?」と口を開いたあとには――アドレーヌと看護婦の間には無言の時間だけが過ぎていた。 何かを探すのに夢中だったのか、暫く黙り込んでいたアドレーヌも、とって付けたかのように下唇を噛み締めながら――言葉を開く。

「先に――先に知っておきたいんです。
 一体いつ来るか分からない寿命に怯えながら――。 飛び出せない自分が憎くならない内にだけ――“はっきり”と教えて欲しいんです」
その言葉の節々に、覚悟のようなものが見え隠れする。 少女の中に秘められたその覚悟は、確かに看護婦にも身体の芯まで染み渡っていた。
「……ただの病気じゃないって、分かっている。
 過労だったら、腕に力が入らなかったり――痺れたりしたりもしない。
 ……教えてください。 一体、何の病気なんですか? 助かるんですか? ――それとも」



【Marxert】(マルクァート)
  悪性腫瘍の一種に数えられる。 主に二十代の若者を中心に発病する突発性の病気。
  食生活、睡眠などの通常の生活のバランスは関連性が無いと見られていて幾人にも発病する可能性を秘めている病気である。
  潜伏期間は長く、突然リミッターが切れた様に疲労の様な手足の痺れや筋力の低下等が短期間で進行。

  現代では食生活を初め、環境の改善で発症率は著しく改善されたが、ごく稀に発病されることがある。
  完治は非常に稀で、これまで発病した多勢の患者は命を落としている。


                               (プププランド医学研究所著: 『現代の恐い病気』より)